昨日は「世界写真の日」でした
写真について、また少し考える
昨日8月19日は、「世界写真の日(World Photography Day)」でした。
一日経ってしまいましたが、昨日ハッセルブラッドから届いた一通のメールがきっかけで、あらためて写真のことを考えていました。
メールの冒頭には、
「8月19日は世界写真の日です」
とありました。
1839年8月19日、ダゲレオタイプ、いわゆる銀板写真の方法がフランスで広く公開されたことに由来する日です。
そしてハッセルブラッドのメールには、
「私たちが目にするものを、カメラはどれほど忠実に再現できるのか」
という問いがありました。
ハッセルブラッドは、その問いに「色」というところから答えようとしています。
肌の色や微妙な階調、光のなかにある色を、どこまで自然に、忠実に記録することができるのか。
カメラメーカーらしい、まっすぐな問いだと思います。
でも、そのメールを読みながら僕は、少し別のことも考えていました。
写真は、目に見えたものを忠実に再現するためだけにあるのだろうか。
そして、またいつものところへ戻ります。
写真って、なんなんだろう。
写真よりも前からあった「カメラ」
写真が生まれるよりずっと前から、カメラの原理そのものは知られていました。
カメラ・オブスクラです。
「暗い部屋」という意味の言葉で、暗くした部屋や箱に小さな穴を開けると、外から入った光によって、反対側に外の風景が像として映し出されます。
とても単純な仕組みです。
光が小さな穴を通り、像をつくる。
ピンホールカメラも基本的には同じ原理ですし、その先にレンズを使った現在のカメラがあります。
ただ、カメラ・オブスクラに映し出された像は、そのままでは残りません。
光がなくなれば、像も消えてしまう。
人は、その消えてしまう像をなんとか残そうとしました。
「見る」ことから「残す」ことへ。
そこに写真へとつながる大きな動きがあったのでしょう。
1839年8月19日
その大きな節目となったのが1839年です。
ルイ=ジャック=マンデ・ダゲールによるダゲレオタイプの方法が、1839年8月19日に広く公開されました。
銀メッキを施した銅板に感光性を持たせ、カメラで露光し、水銀蒸気によって現像する。
撮影した銀板そのものが写真になります。
現在のフィルム写真のように、ひとつのネガから何枚もプリントするものではありません。
基本的には一枚しか存在しない写真です。
もちろん、写真はダゲール一人によって突然発明されたわけではありません。
その前にはニセフォール・ニエプスがいて、同じ時代にはイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットも別の写真方式を研究していました。
光によって生まれた像を、どうしたら残すことができるのか。
たくさんの人たちの試行錯誤があって、その先に写真があります。
だから8月19日は「写真が突然発明された日」というよりも、
写真という技術が社会へ、そして世界へ開かれていった日
と考える方がよいのかもしれません。
光を残す仕事
考えてみると、僕自身もずっと光を残す仕事をしています。
仕事ではデジタルカメラを使い、一日に何千枚という写真を撮ることもあります。
その一方で、フィルムを現像し、暗室に入って、一枚の印画紙に時間をかけて像をつくることも続けています。
Labo0369では、人と一緒にフィルムを現像したり、暗室でプリントしたりする時間もあります。
現像液のなかに入れた白い印画紙から、ゆっくりと像が現れてくる。
何十年も暗室をやっていますが、あの瞬間は今でも面白い。
カメラ・オブスクラでは消えてしまっていた光の像を、人間は残すことができるようになった。
そう考えると、暗室でやっていることも、ずいぶん長い写真の歴史の延長にあるのだと思います。
「忠実に写す」ということ
ハッセルブラッドのメールにあった「忠実に再現する」という言葉も気になりました。
仕事として写真を撮るときには、もちろん色や階調の再現は重要です。
肌の色や商品の色、光の状態を適切に伝えなければならない仕事もあります。
カメラやセンサーの性能が上がり、記録できる色情報や階調もずいぶん豊かになりました。
でも、作品として写真を考えるとき、
正確に写っていれば、それでよいのか。
というと、もちろんそうではありません。
そもそも白黒写真は、僕たちが目で見ている世界と同じではありません。
使うフィルムによって色も階調も変わる。
露光を変える。
現像を変える。
暗室では焼き込みや覆い焼きをする。
デジタルでも、どこまで画面に入れるのか、どの瞬間にシャッターを押すのか、どう仕上げるのかという選択があります。
写真は、その誕生以来ずっと、単純な「現実のコピー」ではなかったのでしょう。
どこに立つのか。
何を見るのか。
何を画面のなかに入れ、何を外へ出すのか。
いつシャッターを押すのか。
写真には、撮る人の選択が必ず入っています。
そしてAI
そして今、写真について考えるとき、生成AIの存在も無視できなくなりました。
AIを使えば、カメラを持ってその場所へ行かなくても、「写真のような画像」をつくることができます。
実際には存在しなかった場所。
存在しなかった人物。
起こらなかった出来事。
そうしたものまで、かなり自然な画像としてつくることができるようになりました。
187年前、人は、
目の前にある光の像を、どうすれば残すことができるのか。
と考えていました。
ところが今では、
目の前に存在していないものまで像としてつくることができる。
ずいぶん遠くまで来たものです。
だからといって、僕はAIを写真の敵だとは思っていません。
むしろAIによる画像生成が普通になっていくことで、
では、自分はなぜカメラを持って、その場所まで行くのだろう。
という問いが、以前よりはっきりしてきたようにも思います。
その場所へ行く
僕はこれまで、地域の風景やそこで暮らす人たち、銭湯などを写真に撮ってきました。
そこへ行く。
歩く。
人と会う。
話をする。
光を見る。
その日の空気や音のなかにいる。
そしてカメラを向ける。
最終的に写真に写るのは、そのうちのほんの一部分です。
でも僕にとって写真を撮ることは、画像だけをつくることではないのでしょう。
その場所、その時間に自分がいること。
それも写真をつくることの一部なのだと思います。
AIによって、行ったことのない場所の画像までつくることができる時代だからこそ、
自分の身体をその場所まで運び、目の前にあるものを見る。
そのことの意味を、以前より考えるようになりました。
写真は時間とともに変わっていく
写真には、もうひとつ面白いところがあります。
撮影したときには、ごく普通にそこにあったものが、十年、二十年と時間が経つことで、違った意味を持ちはじめることがあります。
建物がなくなる。
人がいなくなる。
町の姿が変わる。
撮ったときにはそれほど重要だと思わなかった一枚が、時間が経ってから大切な写真になることもあります。
これまで撮ってきた写真を見返していると、そんなことが何度もあります。
写真は「今」を撮っているようでいて、
未来に向かって撮っているものでもある。
最近はそんなことを考えています。
そして今、gallery0369では
そんなことを考えている今、gallery0369では西浦和彦さんの写真展
「記憶と時間の眠る場所 ― 幽霊たちの声」
を開催しています。
古い集合写真に残された人々の姿。
一本のカセットテープに残された声。
過去に記録されたものが時間を経て、gallery0369という場所に置かれ、現在を生きる私たちがそれを見る。
世界写真の日をきっかけに写真について考えていたら、今この場所で開催している西浦さんの展覧会とも、自然につながってきました。
写真は、撮られた瞬間だけのものではありません。
時間を経て、別の人に見られることで、また違った時間が動き始めることがあります。
8月22日(土)16時からは、西浦和彦さんとのギャラリートークを開催します。
今回の作品についてはもちろん、写真、記憶、時間についても、西浦さんと話をしてみたいと思っています。
ギャラリートークは約60分、参加費500円です。
18時からは交流会も予定しています。
展覧会は8月23日(日)まで。
会期中は全日、西浦さんが在廊しています。
昨日は世界写真の日。
一日遅れてしまいましたが、ハッセルブラッドから届いた一通のメールをきっかけに、カメラ・オブスクラから銀板写真、暗室、デジタル、AI、そして今gallery0369にある写真まで、ずいぶん遠回りをしながら考えてみました。
写真を祝う日というより、
自分にとって写真とは何なのかを、また考えてみる日。
そんな8月19日だったように思います。
西浦和彦 写真展
「記憶と時間の眠る場所 ― 幽霊たちの声」
会場|gallery0369
会期|2026年8月16日(日)〜23日(日)
開場|14:00〜18:00
会期中、作者の西浦和彦さんは全日在廊予定
ギャラリートーク
8月22日(土)16:00〜
約60分/参加費500円
交流会
8月22日(土)18:00〜
展覧会詳細:
https://gallery0369.jp/exhibition/nishiura-kazuhiko-where-memory-and-time-sleep-2026/

