闇をのぞくための光——髙島野十郎展を見て

昨日、大阪中之島美術館で開催中の「没後50年 髙島野十郎展」を見てきました。

以前から、髙島野十郎の蝋燭の絵が気になっていました。

暗闇の中に、一本の蝋燭が静かに灯っている。大きな画面でも、派手な色彩でもないのに、その小さな火にはどこか不思議なオーラのようなものがあり、展覧会のチラシを見ながら、配偶者であるHibicore女将ともその話をしていました。

彼女は以前、豊田市美術館で開催されていた同展を見る予定だったものの、タイミングが合わず見逃してしまっていました。そんなこともあり、今回は大阪中之島美術館での開催に合わせて、ふたりで見に行くことにしました。

会場で、強く印象に残った言葉があります。

「月ではなく闇を描きたかった。闇を描く為に月を描いた。月は闇をのぞくために開けた穴です。」

この言葉に触れたとき、野十郎の蝋燭や月の絵が、少し違って見えてきました。

描かれているのは、光そのものではなく、光によって立ち上がる闇なのかもしれない。月や蝋燭は、ただ明るいものとして画面にあるのではなく、その向こう側にある暗がりをこちらに見せるための入口のようにも感じられました。

蝋燭の絵に惹かれて見に行った展覧会でしたが、会場を歩いているうちに、野十郎が見ていたものは、火や月だけではなかったのだと思えてきました。光を見ているようで、実は闇を見ている。明るいものを描くことで、その周囲にある深い暗がりを浮かび上がらせている。その感覚が、とても印象に残りました。

もうひとつ印象に残ったのは、その徹底した細密描写でした。

花や果実、風景、そして光の輪郭。細かく描かれているのに、そこには説明的なうるささがありません。むしろ、目の前のものを静かに見つめ続けた時間が、画面の中に沈んでいるように感じられました。

会場では、野十郎と仏教とのつながりにも触れられていました。そうした背景を知ると、この細密な描写も、ただ対象を正確に写し取るためのものではなく、そこにあるものを受け止め、見つめ続けるための態度のように思えてきます。

細かく描くことは、対象を支配することではなく、対象の前に身を置き続けることだったのかもしれません。野十郎の絵には、描くという行為の中に、祈りに近いような静けさがあるように感じました。

一方で、会場で少し気になったこともありました。

今回の展覧会では、撮影可能な作品が比較的多くあり、会場内では多くの方がスマートフォンやカメラを作品に向けていました。撮影が許可されている以上、それ自体を否定するものではありません。展覧会を見たあと、自宅で思い返したり、あとから調べ直したりするための材料として、写真を撮って持ち帰りたいという気持ちもよくわかります。

ただ、作品の前で立ち止まり、画面を構え、ピントや構図を確認し、シャッターを切る。そのあいだ、その人の身体と機器が、作品の前の空間を占めてしまいます。

隣で見ていたHibicore女将が、「写真を撮るのか、作品を見るのか、どっちや!」と小さく言っていました。少し強い言い方ではありますが、その場にいると、たしかにそう感じる瞬間がありました。

美術館で作品を見る場は、自分だけのものではありません。ひとりが長く作品の前を占めてしまうと、後ろで見ようとしている人の視線も、歩く流れも止まってしまう。写真を撮るという行為は、記録のための行為であると同時に、その場の空間を一時的に占有してしまう行為でもあるのだと思いました。

もちろん、自分も写真を撮る者ですから、記録したくなる気持ちはわかります。ただ、撮るための身体の動きが、他の人が見るための時間を妨げてしまうことがある。そのことには、もう少し自覚的でありたいと思いました。

野十郎の作品は、むしろ静かに立ち止まり、時間をかけて見つめることを求めているように感じられました。だからこそ、作品の前でいくつもの画面が掲げられている光景には、少し複雑な気持ちが残りました。

蝋燭の火、月、闇、細密に描かれた花や果実。野十郎の作品の前に立っていると、何かを大きく語られるというより、こちらの見る時間が少しずつ静かになっていくようでした。

見終えたあとに残ったのは、作品の画像ではなく、暗がりの中に小さな光を見つめていた時間でした。

この展覧会は6月21日で最終日を迎えます。会期末は混み合うことも予想されますので、可能であれば平日に足を運ぶことをおすすめします。

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